
「申し訳ありません、他社に決めました」。内定通知を出して数週間、その一本の電話で、半年かけた採用活動が振り出しに戻る。募集を出し、説明会を開き、何度も面接をして、ようやくたどり着いた一人だったはずです。受話器を置いたあとに事務所へ落ちる短い沈黙を、知っている方は少なくないと思います。
辞退は、その人の心変わりではない
先にお伝えしたいのは、辞退はその人の心変わりではない、ということです。給与、休日、福利厚生——こうした条件は、満たされていないと不満になる一方で、満たされても「ここで働きたい」という動機にはなりにくい。心理学者ハーズバーグが衛生要因と動機づけ要因を分けたのは、まさにこの非対称性でした。条件だけで呼びかけた瞬間、御社は比較表の一行になります。そして条件の比較表では、資本力のある会社が勝ちます。中小企業が辞退される構造は、多くの場合ここにあります。
ある鉄工所も、同じ静けさの中にいた
前田機械さまも、同じ静けさの中にいました。求人サイトに掲載しても応募はゼロ。条件を上乗せするという道もあったはずですが、選んだのは逆でした。働く現場の日常をマンガにして、会社の近隣にポスティングしたのです。求人票では伝わらない、誰がどんな顔でその仕事をしているのかを、通勤圏に住む人へ直接届けました。配布から10日後、最初の応募——工場見学の申し込みが届き、そこから採用に至っています。
変わったのは条件ではありません。変わったのは、相手が御社の一日を思い描けるようになったことです。
共感は、実話でなくても生まれる
ここに、少し不思議な事実があります。人はアニメや映画を見て泣きます。作り話だと分かっていても、心は動く。つまり実際に起きたかどうかより、その世界をありありと思い描けたかどうかで、人の氣持ちは決まるということです。
裏づけになる研究もあります。教育心理学者マイヤーの11の実験では、絵と言葉を組み合わせて伝えたときの学習効果は d=1.39 という大きな値を示し、その対象について知識が少ない相手ほど効果が強いと報告されています。求職者はまさに「御社をまだ知らない相手」です。さらに物語受容のメタ分析(van Laer ら 2014・76論文132効果量)では、物語に入り込んだ読み手は批判的な身構えが下がる(ρ=−.20)ことが示されています。売り込みに感じさせずに届くのは、このためです。
働く姿が見える会社にする3つの手順
- うまくいかなかった日を描く——成功譚だけの会社案内は、読み手を安心させません。図面が通らなかった日、それをどう抜けたか。詰まった日があるほど、人は自分を重ねます。
- 判断の基準を見せる——有給は言い出せるのか。遅刻したときに何を言われるのか。上司はどんな人か。求職者が本当に知りたいのに、どの求人票にも書かれていない部分です。ここを開くと、ブラックボックスが消えます。
- 内定を出した後も、物語を続ける——内定式で終わらせず、次の一話のシナリオづくりに内定者本人へ入ってもらう。自分が登場する物語のある会社を、人はそう簡単には降りません。
条件で並べた会社は、条件で比べられる
採用の打ち手を増やす前に、順番を確かめてみてください。応募の数を増やしても、伝わっているのが条件だけなら、比較表の中で消耗するだけです。先に決めるべきは「働く姿が思い描けるか」であって、待遇の一段上乗せではありません。
御社の一日を描いた一冊のマンガは、求人票が語れなかった部分——現場の空氣、失敗したときの上司の一言、続けてきた理由——を、読み手の頭の中に置いていきます。
内定を辞退したあの方は、御社の何を思い出せたでしょうか。給与額でしょうか、それとも「あの、〇〇をやっている会社」でしょうか。その一言が決まっている会社から、辞退の電話は少しずつ減っていきます。
その一言を、通勤圏の人へ先に届けた会社があります。
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